こぼれ話

丸石神の魅力について、個人的に思う事。

丸石神の魅力

個性

丸石神

丸石神の魅力を考える時、まず各々の丸石神が持つ個性が上げられるのではないか。

山梨の路傍でおよそ七百カ所も祀られる丸石神だが、一つとして同じ丸石神はいない。集団型、単体型と区分はできるが、同じ区分の中においても、個々は全く違った様相をしている。

画一的になりそうな単体型一つを見ても、祠に鎮座しているもの、高い台座に祀られているもの、道端で見過ごしそうになるほど目立たないもの、神餞や道祖神などと刻まれているもの等々、そのバリエーションは目を見張るほどに豊富だ。
天然の丸石なら形がまちまちなのは当然の事だが、人工的に磨き上げられた丸石も、祀られ方や景観と相まって、その場所ならではの面白味をかもし出している。
集団型や追加型であれば、丸石の形、祀られ方に加え、積み上げられ方にも個性が出ている。

人間をヒトという種類で捉えると、頭があり腕があり足がありと、構成要素自体はどの個体も変わらない。しかし、一人一人をよく見れば、誰もがみなその人だけのオリジナリティを持っている。

丸石神の個性を思う時、ふと私は人間を見ているような錯覚を覚えるのだ。どれも要素は「ただの丸い石」なのに、その姿は千差万別であり、一体一体が見れば見るほど独自の味を持っている。

丸石神を探していくつか町を巡ったが、何体見ようとも飽きはこなかった。どの丸石神たちも、遭遇するたびに新鮮な出会いとして記憶に刻まれるのだ。

庶民性

丸石神

丸石神はその名の通り神であるが、他の神仏と比べると、仰々しさには程遠い。
道祖神の通例どおり、立派な神社を建てて丁寧に納める事はない。身近な路傍にこじんまりと祀られているのだ。もちろん、大量に集まって場所をとっている丸石神もあるが、ざっくばらんに積み上げられている感は否めない。
祀られ具合で比べれば、あくまで路傍であり、こじんまりに過ぎないのだ。

また、いちいち道端の地蔵を意識する人は少ないだろうが、地元の人々にとって丸石神はそんな存在らしい。確かに、住んでいる地域の地蔵を全て把握している人がいれば、もうその人は地蔵マニアだろう。丸石神も同様で、あれだけある丸石神をいちいち把握している人がいれば、丸石神マニアか研究者だろう。
他県から見て珍しい文化であれ、地元において丸石神は、道にあるいつものお地蔵さん、ご近所の神様的ポジションなのだ。

丸石神

私には、丸石神の庶民的なところがたまらない。
俗な例え話だが、神社仏閣に祀られているご神体が美人モデルだとしたら、道祖神は、身近にいる可愛い子だ。雑誌やテレビで目にするあまりにも美しい高嶺の花より、職場にいるちょっと可愛い普通の子の方が、心構えも緊張もいらず取っ付きやすい。たまに寝ぐせが立っていたりと、少し駄目なところも親しみやすい。
あえてメディアに取りざたされる事もないが、日常生活の中にあるかけがえのない愛おしさだ。

道にある素朴な道祖神を見ると、その「ちょっと可愛い子」を思い浮かべてしまう。元々の造形も神々しさには足りず、その上風雨と月日にさらされて、たいぶ崩れてしまっている。だが、彼らは神であり、昔から変わらずひっそりと祀られ続けている。この現代においても、年末年始には思い出したように餅が供えられ、区画整理があればわざわざ移動して祀りなおされる。大事にされているのだ。

ご神体というには、実にゆるい。宗教というには、実にゆるい。そのゆるさが、実にいい。造形として未完成の姿、信仰としてざっくばらんなところが、まさに庶民の生活の中に息づく神、道祖神の完成形なのではないか。

道祖神は庶民的な雰囲気をかもし出しながら、道端に座って過ぎ行く人を見送っている。そして丸石神は、さらにその上を行く。何かを模した訳でもない、ただ丸いだけの素朴な形が、フランクさにいっそう拍車をかけている。

丸石神は今日も路傍で大小入り乱れ、道行く人々をひっそりと見守っている。その形は柔和で優しく、親しみ深い。人々の生活にそっと寄り添い続けてきた、庶民の神の姿である。

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